QED

私はこの世界について驚くべき真理を発見した。だが、それを記すにはこのブログは狭すぎる。

唯物論は、人間の生きる気力を奪う破滅的な思想である

中途半端に科学をかじった人(たとえば僕の出身大学の人等)に多いのが

  僕らの”心”も、脳という”物質”が生み出したものに過ぎない

という「唯物論」的な考え。
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僕自身、”心”とはなんだろうか、ということをたまに考えます。

というか、今日も考えていたので、こういう日記を書いているわけです。

で、上記のような「唯物論」的な考えを、

堂々と言ってくる人も過去にはありました。

僕としては、それを100%否定する科学的根拠は持ってないこともあり

『人を動かす』にもある

「議論で勝っても相手の意見を変えることはできない」

という話じゃないですが、

基本的にはケンカをしないように

「そういう考えの人は多いですよね~」とお茶を濁してきたわけです。
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ただ、やっぱり何度考えても、

  「心」は物質的に100%解明できる

という素朴な唯物論

  人間のやる気を奪い、生きる気力を喪失させる、破滅的な思想

としか思えないわけで、そう思う理由をまとめておこうと思った次第。
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なぜ唯物論をそんなにもdisるのかと言えば、唯物論がもたらす結論は

  すべての未来はすでに決まっている

という決定論的な世界観だからです。
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僕らを形作っている物質は、量子論と相対論で完全に記述されています。

そして、量子論も相対論も、本質的に「決定論的な理論」です。

つまり「現在の状態から、未来を計算することが原理的に可能」

もちろん物質の数が多くなってくると、

現在のコンピュータでは計算速度が間に合わずに

計算しきれないことがほとんどなのですが

「現実的に計算しきれない」としても

「原理的には計算できる」わけです。

つまり、

この世の中が”物質”だけで説明できる=量子論と相対論だけで説明できる

とするならば、

未来の状態は100%決まっていることになる、というわけ。

こういうのを「決定論的な考え方」といいます。
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これが、どうして

  破滅的な思想

というのか、と言うと

僕らの「心」も完全に物質的なものならば、

僕らが何かを思ったり、言ったり、やったりすることも、

  宇宙の最初から全部決まっている

ことになります。
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これって、ものすごく人間のやる気を奪う考えだと僕は思うわけです。

たとえば

必死で勉強して”大学に受かった”人も、それは「決まってた」わけです。

・”必死で勉強すること”も「決まっていた」し

・”受かること”も「決まっていた」

と言われて、「これからも頑張ろう!」と思う人がいるでしょうか。
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あるいは、先日、錦織選手がグランドスラム2位の快挙をなしとげまして

日本中が応援ムードだったと思うのですが

これも”2位になる”ことは「決まっていた」ことになります。

どんなに必死に応援しても”2位”ということは実は決まっていた。

いや、必死に応援しようという”思いが出てくること”も

(出てこないことも)決まっていたことだった。

としたら、本気で応援しようと思えるでしょうか。

錦織選手は、ものすごい練習をされてきたと思うのですが

「あなたが、それだけ練習するのも決まっていたことなんだよ」

と言われて、もっと練習しようという気になるでしょうか。
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言うなれば、唯物論がもたらす結論は

  ”自由意志”の否定

です。

「いや、俺には自らの意思がある!こんな世界は嫌だ!」

とか思って自殺しようとしたとしても

”自殺しようという思いが起きた”ことも「決まっていた」わけです。

”やる気を出す”のも、”出さない”のも「決まっていた」こと。

”努力する”のも、”しない”のも「決まっていた」こと。

こう考えると、僕はどんどんやる気が萎えてくるわけですが、

それすらも「決まっていた」こと。

そんな世界で生きたいと思うでしょうか。
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残念ながら、僕には(というか、今の科学では)

  「心」も100%物質的な現象である

ことを完全否定する根拠はありません

(もちろん、全肯定する根拠も無いわけですが)

だから、唯物論を支持する人を間違いだと決めつけることはできません。

本当は、”自由意志”なんてものは幻想で、すべては「決まっている」のが

この宇宙の真の姿なのかも知れませんから。

僕としては、その考えには絶対に納得できないわけですが、

”納得できない”ことさえも「決まっている」のですから、

もはや反抗のしようがない。
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そういうわけで

僕は「”心”も100%物質的なものだ」という、素朴な唯物論

感情的に到底受け入れられないし、

そうではない可能性を今日も模索するわけです。
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もっとも、すべてが「決まっている」のならば、

その”模索”も「決まっていた」ことだし

”僕がそういう立場をとる”のも「決まっていた」ことになるわけですが。